愛と誠(2012)


予習として原作読んで大感動した身としてはこの映画の出来には首を捻らざるを得ない。
本作の作り手がどの程度原作の核となるエモーションを引き受けようとしたのか、そこがかなり疑わしい。

この映画を観る前に原作を読んで大感動したのだけれど、この作品の重要な部分って、冒頭ネルーの手紙から引用されるけど「愛は戦いである」ってフレーズだと思う。
それぞれの登場人物がそれぞれ、はっきりとした世界観や人生観(信仰と言っても良いと思う)を持っていて、それに基づいて(時には悩み葛藤しながらも)行動して衝突する。
その衝突の凄みと、最後に残る無償の愛の尊さ(言葉にすると陳腐かもしれないけど)が胸を打つ。

だから、映画化する際に展開がダイジェスト気味になったり、多少描写が端折られるにしてもキャラクターの描き込みはキッチリしなきゃいけないでしょう。
予告編が出た時にミュージカル風なルックにブーイングも出てたけど、俺は実際に観るまではキャラの世界観を効率よく語るための戦略なのかなぐらいに思ってたし、何より先述の重要な部分さえ描けていれば良いんだ、と期待してた。

ところがねー、策士策に溺れるっていうのか分からないんだけど、本作はある種コメディタッチに針を向けた事で原作の根本的な部分が台無しになり、誰の、何のための物語なのか良く分からない事になっている。

最も重要なはずのキャラクター回りの描き方に関して大変違和感を感じたの以下に書いておく。

ここから先何度も「原作では〜」と出てくるが、原作を絶対視しているのではなく、このお話のエモーションをかきたてる上では原作の方が限りなく正解に近いように見えるし、本作が原作にそっぽ向いて向かった先に何が良いものがあるとは俺にはどうしても思えなかったからだ。


・太賀誠
健闘してるとは思うが、やっぱり妻夫木聡とこの役の相性はあんまり良くないような気がする。
眼力やガタイ等強そうに見えないし、太賀誠としてはちょっと色気やワイルドさにも欠ける。
ある種のナイーブさと力強さが同居してないと難しい役だとは思うが、ちょっと後者が足りてない。

描き方も疑問で、幼き日に早乙女愛を助けたたった一回の献身がどのように彼のその後に暗い影を落としたのか、それをもっとハッキリ観客へ突きつけて描く必要があったはず。
そうしないと太賀誠というキャラクターが持つ世間への不信と怒り、寂しさが観客の中で像を結ばない。
一応過去は描かれたりするんだけど「荒れてます」以上のものではないように見えちゃってた。
原作にはあった立ち回りの狡猾さも失われているのも残念。

あと、太賀誠がガムコにウィンクされて吐くっていうギャグがあったんだけど、そんな描写原作にあったっけかな?
このあたりは違和感を感じた。

あとあと、最後に座王権太との戦いに勝つ所で過去の荒れてた時の描写が伏線として使われるんだけど、重ね合わせるべきは荒れていた時でなくて、早乙女愛を助けた幼少の時なんじゃないのか?
それがそのまま早乙女愛の献身や思いが間違ってなかったっていう描写になるはずなんだけど…。
どうもこの映画の終盤は原作にある中盤の描写と終盤の母周りの描写が混ぜ合わされてて、そこはあまり上手くいってないように感じられた。

早乙女愛
武井咲は大変可愛かった!
…けど、やはり、早乙女愛としてはただの馬鹿みたいに描かれているのが俺には許せん。
先述の通り太賀誠の過去の描写が薄いため、彼女の罪悪感や献身に伴う苦痛や悲惨さが全く真摯に伝わらない。
あの素晴らしい愛をもう一度」を笑顔で歌ってるあたりが今から思うと、随分原作とズレてるんだよな。
原作での彼女は正気で愛という狂気に殉じていく壮絶さが濃厚にあるキャラだったし、どっちかっていうと苦しんでる表情の方が多かったんだよな。
いくら、バイト先の喫茶店を風俗店みたいにしようが、リアルな痛みが一向に伝わってこないため割とどうでもいいキャラになってしまっている。…事実上の主人公なんだけどね…。
いや、そもそも追い込みっぷりが原作の10分の1にも満たないんですよ!街中でナイフ投げられるとか、全校生徒からボッコボッコにされるとかしろって!

・岩清水弘
原作では早乙女愛の相談役であり、早乙女愛にとっても正気の声の役でもあるんだけど、全体的にやや変態ちっくなコメディリリーフみたいになってた。腹立たしい。

正気だ冷静だ、と言いつつも早乙女愛にぞっこんの彼自身の行動もまた正気のものではなかったりするのだけれど、この映画ではご多分に漏れずそこに対する痛みがほとんど描かれないため一向に血が通わない。
もっと…こう…拷問されたりしろよ…痛覚神経を刺激するバイオレンス描写…得意なはずだろ三池監督は…。

泣かせ所として、絶対に頭を下げたくなかった相手である太賀誠に頭を下げるって場面があるんだけど、先述の通りそこまで岩清水が頭を下げる事を躊躇う相手に見えなかったなー。
ある描写のヌルさが他の描写ヌルさへ波及してしまっている例じゃないかと思う。

・高原由紀
一番「チガウ…コレジャナイ…」感が強いのがこのキャラ。
もうほとんど原作の影も形も残ってないです。
一応、顔に傷を負ってからの行動を元にしてるんだろうなあ。
原作にあった過去に愛を信じたが故にバカを見たっていう太賀誠と重なるようなキャラ付け、及びその後の太賀誠に対する執着の描写は尺の都合上描けなかったんだろうなあ。
だから多分今流行りの「ヤンデレ」みたいな描写になってたんだろう。(にしたってペラいと思うが…)
そこらへんを飲み込んだにしても、やっぱりこの高原由紀も役者の棒読み演技も手伝って怖そうにも強そうにも見えないし、こいつの一声でスケバン達が動くっていう説得力に欠けるよ。

スケバンって男女交際禁止じゃないのかなあ、とか、
ガムコがノリノリで高原由紀の命令に従ってるのもよく分からないなあ、とか、
「刺したヤクザの親分が申し訳ないって事で養女にした」ってどういう理屈だソレ、とか
もう考え出すと頭が痛くなる描写が結構あって、その割にツルゲーネフの「初恋」をずっと持ってたり投げナイフの記号が残ってたりしてもうよくわからない。

どうも全体的にキャラクターが記号化、矮小化されてて気に入らないんだけど、高原由紀はその最たる例と言える。

座王権太
原作ではオッサンでなく物凄いガタイのデカイ大男なんだけど、まあ、それはムリか…。
彼も彼なりに葛藤したり間違えたりして、そこが味わい深かったりするんだけど、そこが丸ごと削られてある種暴力装置みたいな描き方になってる。
けど、まあ、尺の都合もあるだろうし、このキャラクターに関しては仕方が無いかなとも思う。
狼少年ケンのテーマ」歌う所なんかはそれはそれとして面白かったしね。


「今時の若いモンにはこういうのは暑苦しく感じられるだろうから、ひとまずコメディタッチにポップに描いて段々真剣なエモーションへ導く構造にしましょう」っていう戦略で作られていたのかも、と好意的に受け取る余地はある。
でも、それをやるには脚本の力が全く及んでないように見えるし、そもそも「愛と誠」はコメディタッチにするのは簡単かもしれないがそれをやると事の本質から遠ざかってしまう類の作品だし、何よりそういう引き算の戦略は「愛と誠」的ではない気がする。

正直、心底期待していただけにガッカリ度がかなり大きく、
「「愛と誠」のちゃんとした(ウェルメイドという意味でない)映画化が観たい!」という気持ちが行き場を失くして彷徨っています。

三池監督は早撮りで作品毎に出来のムラがあるのは知ってたが、本作は傑作であって欲しかったなあ。
これは正直本人的にも不本意な出来だったんじゃないだろうか。
次作の「悪の教典」はお得意なバイオレンス描写がありそうなのでそちらは楽しみ。