ケンタとジュンとカヨちゃんの国

ケンタとジュンとカヨちゃんの国 [DVD]

ケンタとジュンとカヨちゃんの国 [DVD]


登場人物の孤独、焦燥感、怒り、哀しみ、ドン詰まり感、それらは愚か行動原理さえ
一個もリアリティを持って伝わってくるものはなかった。
ソフトに言って駄作。
はっきり言っちゃえばゴミだと思います。
酷い。酷すぎる。
よくもまあ、こんな退屈で冗長でつまらない映画を客に出せたもんだと思う。
こんな陳腐な映画で「僕達の世代が〜」とか「アメリカン・ニューシネマが〜」とか語っているのを観ると本当にイライラする。本当にイライラする。



この映画における「底辺の若者」の描写の粗雑さ、不誠実さ、愛の無さは本当に不快になった。
映画を観ていてこれほどはらわたが煮えくり返った経験はないぐらいだ。
とにかくリアリティがない。
あろう事か自らの苦しみを台詞にして語ったりする。
映画の冒頭、ジュンとカヨちゃんがセックスするくだりで「あたしが…ブスなのは知ってる…愛されたい…」みたいな事をモノローグで語らせたり、障害者の方を指して「こいつらの居場所はここしかないんだ」とか言わせたりする。
あと多部未華子演じる田舎のキャバ嬢の描写もスゴかったね。
ほんと大した面の皮だと思うよ。
この語り口の下品さは「マイマイ新子」や「マイライフアズアドッグ」とは対極にあるものだと思う。
下品なだけでなく下手に言葉にしたせいで彼らの苦しみにリアリティも切迫感も感じられない。
伝わってくるのは作り手のイージーに「そういう人たち」を無遠慮に消費しようとする恥知らずな感覚だけだ。
自らの苦しみを言葉にできないからこそ苦しいのであって、それを言葉でなく伝える事ができるからこそ映画って良いモノなんじゃないか?
こういう登場人物の事を真剣に考えず「アメリカン・ニューシネマっぽいのやりた〜い」という手前の欲望のために彼らを駒にする作り手を俺は信頼しない。
少なくとも多くの人から賞賛を受けたりするべき作品ではないと思う。


思わせぶりにしたいがためにビローンと間延びしたシーンも本当にきっつい。
構成がど下手くそな点も相まって非常に退屈な映画になっている。
せっかく良い役者が揃ってるのにその演技のほとんどが空回りしている印象。
この映画観てる間山下敦弘監督って本当凄いなあって思ったよ。
山下映画の間は退屈だったり間延びしたりしている印象はないもの。



この「観客を思わせぶりな描写で煙にまこうとしてるだけだろ?」という批判はオレの大好きな映画「害虫」や「アカルイミライ」に対しても当てはまる。
確かに「害虫」も「アカルイミライ」もリアリティはあまりない。
ただ、「現実から何かを剥がしとったらこういう世界になっちゃうんじゃないか…?」という切迫したものは感じられた。
うっかり伝わっちゃったのだ。


ケンタとジュンとカヨちゃんの国」はまずもって伝わるものは一つもなかったし、今後も伝わる事はない。
まして、「いや、実は何かあるんじゃないか…オレが見落としているだけでは…」と再見を促すような凄み、もしくはハッタリもない。
あるのは「ぼくもアメリカン・ニューシネマっぽいのやりた〜い」というナメきった姿勢だけだ。
こういう姿勢は(少なくともオレは)「害虫」や「アカルイミライ」に対しては全く感じなかった。


「害虫」は宮崎あおいを追い込みたいがためにご都合主義的に不幸が降りかかるホメられたもんじゃない映画である。
アカルイミライ」のオダギリジョーは弁当のから揚げが少ないだけでキレたりする有体に言って基地の外の人だ。
だが、これらの映画はある種作り手の中にある描きたいものに対して忠実で、不恰好でも、99人の反感をかっても1人を心底ふっ飛ばしてしまう事がある。
アカルイミライ」は心底面白い映画だと思ったし、「害虫」は心底しんどい気持ちになって半ばそのしんどさに酔う自分の暴力性まで突き上げられた。




ケンタとジュンとカヨちゃんの国」には「実はそういう映画なんじゃないか」という留保を置く気にはなれない。
と、いうかそういった作家性を期待させる甲斐性がないのだ。
陳腐で、傲慢で、その上ヘタクソな結構な駄作だと思う。
去年、この映画を危うく劇場で観る所だった。
観ていたらバッチリ去年のワースト映画になっていたと思う。