星を追う子ども




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D


今年の暫定ワースト1

雑でヘタクソな上に「秒速」にも見られた嫌らしさも残っている最低の映画。

前作「秒速5センチメートル」を見てはらわたが煮えくり返った事も忘れ

「今思えばあの自意識の暴走も微笑ましいものだったのかもな、散々『秒速』を悪罵したお詫びと思ってチケット代払って観てますか」

と迂闊にも劇場へ足を運んだ自分を呪う。



ネット上でも多く指摘されている事だが「ジブリ映画のぱちもん」感がハンパない。

もちろん、引用がいけない事だとは思わない。

過去の作品を自分の作品に組み込んで新たな価値を生む事はよくある事だ。

いや、むしろほとんどの創作の前提にあるものが引用、言ってしまえばパクリなんだと思ってる。

しかし、「星を見る子ども」におけるジブリ映画の剽窃は本当に腹立たしい。

さほどジブリ映画に思い入れのない自分でも「あっパクリだ」と思うほどにこれ見よがしに「ほら、どう?巨神兵。」「ほら、ほらほらムスカ」とジブリ映画っぽい記号が並べ立てられる。(※おそらくジブリだけではないと思われる、ガンツっぽい艶消し黒な球が出てきたし)



本作における他の作品からの引用は無駄に多い上に、「オレならこうするのに」という批評も見られない、引用元の作品の肝を捉えられていないのでパクりにすらなっていない、更に多数ある引用が本作の魅力に還元されない(今回は個性があるはずのキャラもナウシカやらアシタカやらパズーやらムスカやらのお面を被せまくったせいで結局のっぺらぼうになっている)。

これ、引用元の作品に対する冒涜と思われても仕方が無くないか?

ただ、ジブリっぽい記号を放り込んで自分の名札を貼れば、ジブリっぽい映画になって、ジブリっぽい評価を受けるとでも思っているのかね。

劇場を見ている間ずっと「恥ずかしくないのか?」とず〜っとイライラしっぱなしだった。



この厚顔無恥さは「秒速5センチメートル」のラストにも見られた。

10分足らずの短編に山崎まさよしの「one more time one more chance」を丸ごと流して、演出はプロモーションビデオのように曲に頼りきり、タイトルは「one more time one more chance」ではなく「秒速5センチメートル」という創作上の圧倒的な倫理の欠落があったと思う。



あとは全体的にリアリティの欠落がジブリ映画を剽窃したが故に「秒速」より更に浮き上がってしまっている。

全体的にキャラが何考えているのかが、リアルな一人間の切実な思いとして伝わってこない。

主人公がシュンに寄せる思いは応援できるように深い所でこちらに伝わってこない。

それっぽい音楽をかけて、キレーな景色を見せても、心の動きが理解できない。

その他

・鉄橋から大きなモノが加速もせず等速で落ちていく

・芋をなぜかモリサキは熱がらない。

・チャンバラのシーンでほとんど動きが見られない

等々、リアリティを感じられない描写が満載だった。



ちなみにこの作品、大量に他作品の記号をぶち込んだせいか話運びがひっどい事になっている。

組織とか、シンが自分の村から出るところとか、無駄に話を散漫にするシーンが多い。

まだまだ考えれば考えるほどアラが出てくるが、脚本のずさんさに踏み込もうとすると頭がガンガンしてくるので考えないようにしたい。



雑感だが、リアリティの欠落やキャラクターがペラペラである以前に喪失とやらが全く痛ましくないのもつまらないと思う。

シュンの死もモリサキの妻の死も話の推進力になる大事な部分なのに全く直接的には描かれない。

結局本作(と前作の「秒速」)における「喪失」は安全圏にいる観客とキャラクターを慰撫する嫌らしいものにしかなっていないように思う。

邪推だが、新海監督は「喪失をかかえて生きること」をリアルな生活者の実感のレベルで肌身に感じていないんじゃないか?どこか机上の理想論として考えてないか?

そうやってしんどい所は全て避ける様を見てみぬフリして「そうだね、悲しいね、でも生きていこうね」と半ば陶酔しながら喜べる観客と作品の関係も少し嫌らしいものを感じる。



その他、オーケストレーションのうるさい音楽や綺麗な景色を羅列すればゲージュツっしょ!と思ってそうな所が芳香剤のきっついヤンキーの車みたいだな〜等等、僕のソウルジェムを黒くさせる要素が満載な映画だ。

今年のワーストはおそらく動かないと思う。